国際ハブ空港問題セミナー

「新千歳空港国際線誘致の軌跡と今後の取組み」

福井 朗氏(北海道総合企画部交通企画室参事)

  

 新千歳空港が開港して15年になりますが、この間、官民一体となって新千歳の国際拠点化ということで頑張って来ました。この歴史の重みと、思いを上手く伝えられれば良いなと思っています。

 1 国際線誘致の軌跡

  1)国際拠点空港化について

○国際エアカーゴ基地構想について

 北海道は昭和63年度から、成田空港が飽和状態の中で、新千歳空港を成田空港の機能の一部を補完する日本の北の国際航空貨物輸送の拠点とし、その波及効果を周辺地域及び全道へ広げようとする「国際エアカーゴ基地構想」を推進してきた。要するに、北海道経済の構造転換をしなければならないという中で、北海道経済の起爆剤という位置付けで、相当力を入れて来た。

 しかし、現状は貨物便は飛んでおらず、フェリーによって貨物を輸出入している。そういうこともあって、平成10年からの新しい計画では、貨物中心の構想であった「エアカーゴ基地構想」を、人的交流を含めたものに拡大していった。そこで、現在の目標は、年間利用者数を100万人、取扱貨物量を20万トンに定めて、国内外の航空会社への乗り入れの誘致をして来ている。

 これまでの航空貨物をめぐる関連の動きとしては、平成元年11月、日米航空交渉において4年ぶりに暫定合意が成立した。これによって、成田、大阪空港以外の地方空港の路線拡大、米国側利用チャーターの拡大が決められた。そして、平成23月に「国際航空貨物一極集中改善調査」で指摘を受け、地方航空活用方策の検討を求められた。そこで、平成25月から平成33月まで「エアカーゴ・テスト・チャーター(ATC)」を10回ほど実施した。この「エアカーゴ・テスト・チャーター(ATC)」の結論としては、「国内航空の下部貨物室を活用した国内転送については、費用が嵩むという問題が指摘されているが、その高速性が関係者に高く評価されたことから、国内航空路線のハブ空港の一つとして、重要な役割を果たしている新千歳空港を、国際航空貨物の国内ハブ空港として活用する可能性が高いと考えられる」ということだった。要するに、時間的には優位性がある。国の政策のやり方によっては、北のゲートウェイとしてのハブ空港としての可能性も高いという事である。そこで、平成35月に日本航空が、香港〜名古屋〜新千歳〜ニューヨークの貨物定期便を飛ばした。しかし、基本的には地元需要が少なかったことから平成410月に運休した。そこで、北海道としてはエアカーゴを推進するうえでは、24時間対応でなければ国際競争に勝てないという事で、平成6年に国内で初めて24時間運用について合意、調印した。平成84月には「日米航空貨物協議最終合意」において、貨物定期便が新千歳空港を利用する場合は、制限付きの以遠権(新千歳から香港へ行くなど)を認めるという事が盛り込まれた。これは新千歳に限って認められたもので、エアカーゴ構想を支援するための措置であった。しかし、以遠権を認められても航空会社は採算ベースで考えることから、システムにまで踏み込んで考えなければならなかったが、なかなかそこまでは出来なかった。また、平成6年には関空がオープンしたり、成田も空港用地の地区外に倉庫を作ることを特例として認めたり、あるいは1本の滑走路しかないけれども1時間当たりの発着量を工夫するなどして枠を増やしたりという事があって、結果的に新千歳にエアカーゴ基地は出来なかった。

  2)国際線誘致の軌跡

 国の航空政策や経済の動きによって、新千歳が追い風を受けたり、逆風を受けたりして、この15年の間に光と影の部分が結構あった。その中で、どのような工夫をしながら官民一体となって取組んで来たのかという事についてお話したい。

 平成元年〜4年を第1段階、平成5年〜8年を第2段階、平成9年〜を第3段階に分けて、それぞれにおいて、航空政策がどうあったのか、国の経済動向などを合わせて、国際線誘致の軌跡をお話したい。

地方空港の旅客数の推移は、平成元年に門戸開放されてから平成2年には432万人、全体におけるシェアは13.9%、平成7年には18.4%ということで、シェアを延ばしている。第6次空政が平成3年から始まり、追い風の時代が地方空港に降りて来た。しかし関空が開港し、第7次空政が平成8年から始まると、地方空港の伸びは若干減って、平成12年には18.1%というようにシェアを落としている。しかし、地方空港の直行便に対するニーズは非常に強いことから、地方空港の路線数は結構増えている。

1980年代は日本の経済成長が著しい時代であった。膨大な貿易黒字解消のために内需拡大が求められた。そこで政府はテンミリオン計画を作って、海外に行って幾らかでも貿易黒字を解消しようとした。また、地方空港をどんどん整備した。これらのことから、空前の海外ブームが起きた。85年に本道から海外へ出る人は10万人くらいだったが、90年には23万人と20万人を突破し、95年には30万人、2000年は40万人というように5年毎に出国者数が10万人ずつ増えている。

そのような中で、地方空港が門戸開放された。背景として、87年には全国で682万人の出国者数を、テンミリオン計画では91年には1,000万人にしようという目標であった。実際には90年に1,000万人を突破している。このように航空需要が急激に伸びる中で、国際空港として利用されていたのは、基本的には滑走路1本しかない成田だった。成田はもう対応できない限度いっぱいであった事から、国は地方空港の門戸解放に踏み切った。また86年には、国際線の複数社制ということで、それまで国内線と国際線の役割がはっきりしていたが、航空政策の自由化という流れを受けて、全日空と当時の東亜国内航空が国際線の参入が可能になった。北海道の国際線誘致の第1号はソウル線だが、この複数社制によって全日空と東亜国内航空が韓国に乗り入れた。その見返りとして、大韓航空が札幌線の権益得て就航した。ソウル線については名古屋や福岡よりも北海道が先だった。これについて当時の資料を読むと、大韓航空の東京支店に岩見沢出身の人がいて、熱心に北海道側に働きかけて来たということがあった。人の熱い思いが伝わって来るが、採算も考えなければならない。当時の韓国への出国者がどのくらいいたかというと、道内から韓国へは87年に6,149人いた。この数字をベースに大韓航空は就航を決めた。当時、路線開設には近距離で1.5万人、中距離で約3万人いなければ採算が合わないとされていたので、海外旅行ブームで伸びていた時期とはいえ、大韓航空は英断をしたのかなと考えている。他のエアラインは、この韓国線の成否に非常に注目していた。これが成功すれば次々に乗り入れようという事で、非常に注目していた。結果は、平成元年には19千人、平成2年には4万人、平成3年には55千人と伸びていった。この韓国線の成功によって、平成27月にグアム線、香港線が就航した。

更に追い風になったのは、平成3年の航空審議会の答申である。これによって新千歳は北のゲートウェイということで位置づけられた。同時に、「空港要領の制約のない空港の路線については、新規航空企業の参入について、国内のエアラインが参入を考えていない場合でも、外国の航空会社に乗り入れを認めることが適当である」という方針であった。したがって、この答申を受けて地方空港にどんどん入って来た。平成42月にはホノルル線、10月にケアンズ線が就航して、この時点で5路線の就航となった。この年には、新しいターミナルビルも完成した。

次に、第2段階の平成5年〜8年。平成6年の関西空港開港を契機に、地方空港重視の航空政策が変更され関空にシフトして行った。当時、外国のエアラインは、入るのなら第一に成田、次に大阪ということだった。この関空の開港によって従来、伊丹に入っていたものがどうなったか。当時、伊丹は10カ国15193便が入っていた。開港によって、21カ国29337便と、ほぼ倍増している。これによって、キャセイ航空が新千歳から関空に移ったということもあった。「日本発着路線における新規路線(地方空港関連)状況」を見ると、門戸開放のあった平成元年以降、地方空港に入った新規路線は4年間で70路線ある。しかし、平成5年から関空開港を前後して22路線に減ってしまった。ということで、地方空港への外国企業の進出が事実上、抑制されてしまった。

平成8年〜14年の第7次空港整備計画では、「大都市圏における拠点空港整備を最優先課題とする」ということで、5大プロジェクト、成田平行滑走路、羽田沖、関西二期事業、中部圏新空港、首都圏新空港が最優先課題とされた。また、新千歳空港や福岡空港は、地域拠点空港という位置付けをされた。それで、この時代の誘致は大変厳しくて、停滞していた。

そこで道としては、平成7年の出国者数を見てみると、2万人近い数字で、まだ就航していないシンガポール、欧州は全体で46百人、米国も約4万人ということで、可能性のあるシンガポール、欧州、米国へ誘致活動に入っていった。しかし、なかなか厳しくて、そこで考えたのが2地点飛行ということである。そして平成86月に、KLM(オランダ航空)就航の話が来た。「名古屋〜新千歳〜アムステルダムの開設を検討している。10月上旬開催予定の日蘭航空交渉で結果を出したい」ということをKLMの支社長から北海道側に話しがあった。待望のヨーロッパ線ということで、北海道は一丸となって取組んだが、当初は運輸省が難色を示していた。これは、「2地点飛行は前例がない」「2地点飛行を認めた場合、外国他社の要求を認めざるを得ないが、これを避けたい」ということ。「航空交渉は相互の国の権益の交換なので、日本側からオランダ側に要求すべき権益がない」。もう一つは「ロシア側から上空通過権に絡み、新千歳乗り入れ要求が肯定される」ということで、防衛庁が非常に難色を示した。これらを如何に調整するか。それで道経済界が一体となって、いろいろな取組みをした。防衛庁との調整が一番長くかかった。平成810月には日蘭航空協議が開催され、そこで名古屋〜新千歳〜アムステルダムの運行が、ボーイング747で週2便行うことが決まった。平成96月には日ロ航空交渉でやっとシベリア上空通過権を獲得することが出来た。この間、交渉が難航して、もう無理なのではなかろうかという事が何度もあった。しかし、1年半かけて就航にこぎ付けた。

欧州線開設の原動力は何だったのかというと、やはり北海道の官民あげて総決起大会をしたり、道議会の決議までして、これに向かって行ったということである。北海道の熱意と地域の利益が国を動かしたと、当時の新聞には書かれている。KLMの付随効果としては、翌年には共産圏である中国のシンヨウ線、13年には上海線が就航することとなった。その後は一進一退の状態が続いた。

  3)新千歳空港国際線の旅客実績等の推移

 昔は道民が海外へ行くための交通機関だったが、最近はアジアからの入国者が非常に増えている。「新千歳空港の旅客実績」を見ると、定期便とチャーター便を合わせた数字では、今年初めて514,500人ということで50万人を突破した。その内、外国人数は216,706人で全体の42.1%となっている。平成7年には34,843人で9.9%だから、最近は非常に外国からの旅客数が増えている。その内9割は台湾、香港、韓国である。

昔は航空会社を誘致するために出国者数ばかり見ていたが、これからは入って来る人の数を考え合わせながら誘致して行く時代になったと考えている。国際的に3.5兆円ほど観光は赤字であることから、日本も国全体の魅力を高めて、観光収入を増やしていかなければならない。

 次に、貨物便については、今就航している旅客機の下の貨物部分に荷物を積んで入って来ている。平成14年には5,349トンということで、平成6年のルワンダのPKOの特需を除けば、開港以来のピークに達している。

 2 今後の取組み

 KLM再開に向けてということで、この就航に際しては、日蘭航空交渉、日ロ航空交渉、蘭ロ航空交渉を経て、15ヶ月くらい掛かっている。しかし、一昨年の911の影響によって世界的に航空需要が低迷し、平成142月から運休をやむなくされた。

今後、KLM方式は非常に参考になる。平成9年〜平成14年まで約32万人を運んだ。その内、名古屋からは18万人、新千歳から14万人ということで、率にすると5545くらいである。実は道民にも非常に人気のあった路線で、名古屋に枠を取られて利用できなかったということもあった。搭乗率は87.5とか89.4とか非常に高かった。問題は2地点間飛行による経費の問題である。折り返し便の場合、国内で3回も着陸しなければならない。着陸料と施設利用料がその分かかる。搭乗率は良くても経費がかかるという事で、大変厳しい路線であった。今、再開をお願いしているが、これらの問題をクリアーしなければ再開できないと言われている。ということで、平成1410月にこれまでの2地点運行方式から三角運行方式への変更ということで合意している。三角方式にすると、道民の利便性は1回下がるが、経費的には着陸料が2回に減る。これによって、KLMでは再開に向けて検討している。

次に、北米線については、何度も知事あるいは経済界の方々、そしてハブ研の方々にも行って頂いたが、まるきり感触がないのが実態である。基本的にアメリカの航空会社はデイリー運行を考えていて、そのためには出国者数が10万人は必要だと。今、アメリカ全体では15万人であるが、ハワイとグアムが入っているので、本土は5万人である。

これから北海道が伸びて行くためには、地元需要からすると、アジア線が伸びていくのかなと考えている。台北のチャーター便は平成129月から曜日と時間を固定して運行している。台湾とは国交がないことから、民間航空協議によって運行している。定期便にするには、中国政府の了解が必要となっているため、道では予ねてから外務省を通じて中国政府に了解を求めて来たところであるが、本年1月には定期便化に対する中国政府からの了解が得られた。したがって、早ければ3月にも定期便化されることになる。