
「糖鎖工学研究と次世代ポストゲノムへのシナリオ」
西村 紳一郎氏(北海道大学大学院理学研究科生物科学専攻教授)
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この分野の研究は、日本、アメリカ、イギリス等々の研究者の間で盛んに研究が進み、競争が激しくなっています。成果も少しずつ見えて来て、今、ブレイクする寸前の状況にあります。「糖鎖工学」というのは、正にお砂糖の研究ですが、皆さん良くご存知のお砂糖ではなく、甘くないお砂糖のケミストリー、あるいはサイエンスです。甘くないお砂糖の代表はデンプンとセルロースで、地球上の生物によって大量に生産されていますが、私どもが扱っている「甘くないお砂糖」は、デンプンでもセルロースでもなく、生き物の細胞表面には超微量でも非常に大切な役割を持つ「甘くないお砂糖(生理活性糖鎖)」が無数に存在しているのですが、その研究をしています。 現在、いろいろな生物の遺伝情報、すなわち遺伝子の並び方が次々と明らかになって来ています。この遺伝情報はRNAに転写された後に、タンパク質という形で私たちの良く知る食べ物として目にしたり、生理活性物質として使っています。しかし、ゲノム情報はタンパク質生産に留まっているのではなく、大まかに言うと、糖鎖という別の新しい分子によって修飾された状態(翻訳後修飾)で存在しているという事が分かって来ました。こうしたタンパク質の更に先のバイオロジーが、正に糖鎖のサイエンスあるいはテクノロジーです。ゲノム情報が解読できたのは2003年の春頃でしたが、それを受けて、現在、タンパク質のいろいろな研究が進んでいます。「タンパク3000」というプロジェクトも、正にポストゲノムの領域の代表的な研究です。私どもは、ポストゲノムも重要ですが、糖鎖によって修飾されているタンパク質ですので、先回りをして新しい分野を切り開こうという事で、糖鎖研究を行っています。 糖鎖の研究は、医療や食品や農業等に深く関ってくるのですが、なかでも細胞工学という医学あるいは医工学分野との連携の中で、新しい産業につながって行くのではないかと期待されています。この先には、おそらくオーダーメイド医療や再生医学や再生工学といった方向での、いろいろな応用研究も開かれていくと予想されています。そういう意味で、私どもはポストゲノムよりも、もう少し先の方で活躍するという意味を込めて「次世代ポストゲノム」と表現しています。 では、糖鎖が細胞表面にあってどのような事をしているのかというと、極めて重要な生物学的なコミュニケーションの手段として活躍しています。まず、ホルモン等々の情報伝達物質に対するレセプターとして機能したり、コレラ等の毒素を中和する働きもあります。昨今話題になっているインフルエンザウイルス感染のメカニズムにおいても、糖鎖とウイルス表面のタンパク質の伝達がきっかけになっている事が分かっています。O157のような病原性大腸菌感染の場合にも、バクテリア表面にあるベロ毒素というタンパクが糖鎖を認識して進入して来る事も分かって来ました。一方、我々の身体の中で糖鎖の行う主な働きは、普遍的に細胞と細胞をつなぐ「糊」の役割です。その糊は、何でも良いというのではなく、当然私の細胞と他の人の細胞、馬や豚の細胞ときちんと識別して接着する必要があります。正に免疫的に許容する、あるいは拒絶する接着剤として、非常に重要な働きをしていることが分かって来ました。その最たるものが血液型です。血液型は、非常にシンプルなお砂糖の並び方によって決まっている事が、既に1960年代から明らかになっています。ところが糖鎖の研究は、その後なかなか進まなかったのです。原因は、まず構造解析の方法がなかったことと、糖鎖の自動合成技術もなかった事です。こうした基本技術が確立されないかぎり、この先の難しい構造の研究や生薬、食品に進んで行きません。そこで私どもは10年程前に、基本的な方法論を確立するところから研究をスタートしました。 その中身に入る前に、こうしたお砂糖の分野が本当に医薬や食品や農業や化粧品等いろいろな分野で商品価値があるのか、という産業界の方からの質問もありますので、例を紹介したいと思います。まず、中外製薬が開発した小錦や曙なども良く使っている、関節の炎症や疾患に大量に使われている薬です。商品名はSuvenylで、年間数十億とも数百億とも言われるほど日本で消費された、非常にシンプルな構造の薬ですが、これもお砂糖の仲間のヒアルロン酸です。このように、お砂糖が既に薬として使われていますし、食品として使われたり化粧品の中に添加されているものもあります。 それぞれアメリカ、日本、ヨーロッパで開発が進んでいますが、先ほども申し上げましたように、糖鎖に関する基本的な研究の方法論がまだ確立されていなかったものですから、私どもは、まず3つの基本的な方法論を確立しようと考えました。1つは糖鎖を設計して、好きな糖鎖を合成する技術です。次に、実際に合成した糖鎖の構造を解析する一般的な方法を達成すること。3つ目は、こうした2つの基本的な方法論をもって、汎用性のあるデータベースを作り、そのデータベースを活用して頂くという研究テーマを設定しました。幸い、私どもが7〜8年前から進めている自動合成装置については、いくつかの会社との共同研究により、2年程前にプロトタイプとして装置化に成功する事ができました。現在、主として医薬品を開発するための装置として、実用化の研究を進めています。 基本的にこの装置の原理は、2種類の高分子を用いる(原料となるランダムコイル構造の高分子と、固定化した糖転移酵素を組み合わせた)合成システムです。これは原点に返って、私どもの身体の中や自然界がどのように糖鎖を作っていたかという事に学んだだけです。タンパク質は生合成の際、初期の段階ではランダムコイルという自由度を持った高分子であることが分かっています。これには理由があって、タンパク質が糖鎖をくっつける段階では、堅い状態では非常に不利であるということが容易に予想できます。実際にランダムコイルが、細胞の中のゴルジという装置をすり抜ける時に、糖鎖が次々と付与されるという生命現象があったのです。そして糖鎖の付与が終わってから、タンパク質は非常に複雑な3次元構造に折りたたまれて堅い構造になると事が分かっています。正にタンパク質が糖鎖を修飾してもらって、その後本来の形になるという生合成の過程そのものを、私どもは装置化したということです。最近では製薬会社や装置メーカーと協力して、非常に複雑なペプチド、すなわちタンパク質に糖鎖が結合したようなものを、この装置を使って合成する研究を展開しています。 それでは次に、これを人為的に行うことで、どのようなメリットがあるのかご紹介したいと思います。実は自然界でタンパク質は糖鎖によって構造が安定化されています。そして糖鎖のアンテナの種類によって、特異的な臓器やいろいろな細胞の部位にターゲッティングできます。すなわち、タンパク質は糖鎖の目印によって上手く運ばれている事が分かって来ました。これを人為的にコントロールしてやれば、タンパク質の機能をケースバイケースあるいは必要なときに発現することが可能になって来ます。実際にアメリカの製薬会社が開発した糖タンパク質製剤は、人為的に糖鎖を付与することにより実現した夢の薬でした。しかし、この技術は残念ながら遺伝子組替え技術を伴った糖鎖の発現で、私たちが意図するところに意図する糖鎖の構造を持たせることはできません。しかしながら、このような方法によっても年間8,000億円以上という、とてつもない市場を生んだわけです。こうしたタンパク質、あるいはペプチド、抗生物質などいろいろな生理活性物質に、片っ端からいろいろな糖鎖を付けてみるのが私どもの最初の狙いになっています。この糖タンパク製剤は、国内だけでも数千億円の市場を生むだろうと言われていますし、周辺の装置や試薬などでも数百億円の新たな市場を生むだろうと言われています。その中には、食品や農業などの市場は含まれていませんが、当然この技術が生かされる可能性はあると考えています。 そこで、私たちはIT技術を結集して、北大を糖鎖情報の中枢にしたいという夢を持っています。いくつかの会社が作ってくれた寄付講座を軸として、糖鎖のデータベースを作成する事になりました。そのデータベースは、当然お砂糖に関連するサイエンスあるいは産業に直結するものであるべきですが、まず私たちは糖鎖を束ねる技術と分析する技術を通して、糖鎖の化合物、糖鎖の機能、糖鎖の構造の3種類のデータベースを作り、1年前からWeb上で公開しています。 また、私たちはこの技術を、北海道に多種類存在すると言われている未利用の生物資源のデータベースに活用しようとしています。もともとお砂糖は、木材の中に多種類の配糖体として含まれている事が知られています。この配糖体の中には、非常に面白い生理活性を持った化合物があります。私どもの研究所では、2年前から経済産業省の支援を受け、コンピューターを用いて面白い化合物を北海道の生物資源の中から見つけ、それを有効に活用する仕事を進めて来ました。北海道の約1000種類の天然物のデータベースも集まっています。既に試薬として世界中で販売されている化合物のデータベースも全て一括してライブラリーにし、その中から有効なライブラリーを見出す技術の開発も進めているところです。そして見つけたものが本当に有効かどうかをコンピューター上で確かめる研究も開始しています。 実は、糖鎖のデータベースは別の角度から見ると、もっと重要な意味があります。私たちはいろいろな病気に掛かりますが、その時、細胞の表面にあるお砂糖が変化します。それは決定的なデータベースになります。そのお砂糖の構造の変わり具合から、実際に病気の状況あるいは程度を早く診断しようというわけです。私たちは細胞表層の糖鎖を吸い取る技術を開発しました。それにより、個々の糖鎖の構造パターンをデータベース化することが可能になりました。現在、装置の開発を進めているところですが、装置が出来る出来ないはともあれ、構造解析をどんどん進めて、病気と糖鎖の構造パターンの関係をデータベース化するプロジェクトを既にスタートしました。最終的に基礎研究、治療薬開発を含めた研究開発に生かすと共に、個人情報という難しい面もあるのですが、患者さんの治療等に臨床を通してフィードバックすることが予定されています。 <ライフサイエンス・バイオテクノロジー分野の研究開発が開拓する北海道の新しい産業> 次に、北海道の農業など、ライフサイエンスが抱えている問題と、その方向性として新しい産業が芽生えるかどうか、という観点から私たちのサイエンスを眺めてみたいと思います。20世紀は物質のサイエンス、テクノロジーが栄えた時代だと言われています。当然その見返りとして、いろいろな環境問題やエネルギー資源の枯渇問題など副生成物が出て来ているのが21世紀です。21世紀は、こうした問題を解決しつつ、どうやって成長して行くかという事で、バイオやライフサイエンスが重要になって来ます。いわばいろいろな物質と、我々を含む生物がどうやって地球あるいは宇宙の中で共生できるのか、を追求するのが21世紀のサイエンスで重要になって来ます。地球も今、病んでいる状態であることは言うまでもありません。それを一体誰が治療するのかという事も重要なことです。私たちケミストの立場から考えると、生物生産される資源を有効に活用するという見方が第一になります。製品の殆どは生物によって生産されていますが、その構成物質は、単純に糖質やアミノ酸等々の非常にシンプルな生体分子です。そうしたものを未利用資源(バイオマス)と位置付けて、更に付加価値の高い材料、原料に変えるという方向性があります。これは微生物等で分解されて生物界で再利用できます。正にリサイクルが可能な材料なのです。そのような仕組みが重要になって来ます。 そこで私たちは、商品として価値の無くなった植物の構成要素を、もう一度元に近い状態に再構築することで、新しい材料に変換できないかと試みています。しかも、できるだけ安全な方法で、リサイクルできる触媒を使うことが大切です。その一部は札幌のベンチャーでほぼ実現させつつあり、近々製薬会社から販売されると聞いております。このようなお砂糖はたくさんありますが、例えば北海道のカラマツの殆ど使われていない部分に含まれている、アラビノガラクタンという非常に珍しいお砂糖があります。これをいろいろ修飾、分解するだけで意外と面白い活性物質になることが分かっています。抗がん剤として有名な茸に似た物質に誘導することが出来たり、あるいはエイズやサーズやインフルエンザ等のウイルス性の疾患に有効な薬になる可能性のあることも発見されました。カラマツが薬になるとは思わなかったのですが、このような利用の仕方もあるのです。まだまだ北海道には未発見の生物生産される資源が無限にあります。北方圏に無限に埋蔵されている古生物資源である珪藻土の中には、触媒の原料として非常に有効なものがあることも分かりました。現在ではビール酵母のろ過材や建材に利用されていますが、私たちはこれを触媒にすることで大きな市場を狙っています。 さて、次世代ポストゲノム研究は、広げて行くといろいろな分野とリンクすることが分かって来ました。ナノバイオテクノロジーの先端分析技術が必要になって来ますし、ITによるコンピューター技術が必要です。また、バイオの蓄積技術や、リサイクルという観点から環境問題に直接関係してくるものもあります。北海道ですので低温生物学で進めて来られた人間の生活様式とも大きく関係します。そこで北大の関連する分野の先生方と共に、北海道における「次世代ポストゲノム研究機構」を創設して行こうとしています。そのキーワードは、まず人の集積です。一人で出来る仕事は限られますし、物理的にも不可能ですから、能力のある方をできるだけ集積することが必要だと思います。そして企業の集積あるいは構築です。それは、研究成果を国内外に発信し産業化することの得意な方や仕組みを取り入れることが大切だからです。最終的には都市計画につながるような新しい町づくりと研究をリンクさせる必要があると思います。その時重要なのは、優秀な研究者が魅力ある場所だと思うかどうかだと思います。私は北海道が好きですから、多少寒くても不便でも我慢しますが、研究者は世界中から来ますので、研究所そのものだけではなく、アクセスや、周辺環境や、一緒に来る家族にとっての環境などライフスタイルも重視します。ですから、新しい科学技術の拠点を創る観点からすると、頭脳を集積するだけではなく、研究学園都市を設計する必要があります。その時、食糧確保、地球温暖化、自然災害、エネルギー・資源問題との関連性も重要になって来ると思います。今、東海・東南海・南海地震が連動する可能性が極めて高いことを、東大地震予知研究所が発信していることを受けて、東京都内でも企業が随分引越しを始めています。そうした大きな災害を念頭においた場合、北海道に生産の拠点を持って来てはという動きも一部には出ています。また、北方圏利用の重要性は、まず地球が温暖化していることが上げられます。本州全体が亜熱帯化しており、マラリアが沖縄や九州の一部に上陸しているというデータもあります。食糧自給率も著しく低下して、先進10ヶ国中では最下位の3割を切っています。こうしたことを考えると、北海道は新しい産業を含めた研究拠点を創るための国家的なプランが進められる可能性もあります。道央圏でライフサイエンスだけを取っても、アクティブネットワークを創ることは可能です。メリットとして、千歳空港による内外からのアクセスの利便性、都市機能として札幌圏の利便性、北大キャンパスには既にカギになる拠点も創られています。歴史的背景を見ても、札幌農学校は北海道開拓の重要な役割があったわけなので、国家的な事業であると考えます。そして温暖化対策、生活環境などがあります。海外の方にとって北海道は非常に住みやすいという定評があります。 最後に、このような先端科学技術研究の発展が道民の生活にどう影響するかですが、大いに影響します。まず、成果を直接享受することが出来ます。高齢化社会にむけて先端医療や福祉が充実することは皆さんにメリットがあるはずです。そして、限りある資源をできるだけ持続的有効に活用するシステムの構築は、皆さんの食べ物や衣服や物質として身近なところに還元されます。こうした事を通して、経済的な波及効果は大きなものがあります。科学技術政策に沿ったものであれば、公共事業も益々必要になって来ますし、拠点形成による人の集中と移動で雇用と消費が拡大されます。都市機能や周辺の環境が整備されることによるメリットもあります。そして北海道ブランドを作り、海外市場に展開できれば経済的波及効果は一番期待できるのではないかと思います。 北大は札幌市の中心に広大な面積を有しているわけですから、ここを産業や研究開発の拠点にするのであれば、やはり札幌市民あるいは道民が成果を一緒に味わえるものにして行く必要があると考えています。
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